世の中はサッカーワールドカップで盛り上がっていますね。
僕も気になる対戦カードはやはり見てしまいます。
今回は医療の話題ではなく、サッカーと自分について思うことを何となく書いてみようと思います。
女性の皆さんはサッカーに興味ない方が多いかもしれませんが、その場合はさらっと読み流していただけたらと思います。
でもそれでも書いてみたい男心です。どうか許してください。
まず、僕自身とサッカーの薄い繋がりを最初にお伝えしたいと思います。
今行っている運動はジム通いと近場でのウォーキングだけですが。
1.小中学校時代、キャプテン翼をテレビと少年ジャンプで見ていた。しかし高校を卒業してからの翼には何故か興味がなくなり今どうなっているか分からない。一説では今も何かで連載中と聞く。
2.中学時代3年間サッカー部に所属していた。原口のような右サイドの攻撃陣。
3.大学受験の勉強中、後にドーハの悲劇と言われる試合でテレビ観戦中の隣人が大騒ぎし、嫌な思いをする。
4.静岡県に住んでいた医大時代に友人に誘われ初めてJリーグの試合を見る。
5.自分の医大時代に日本が初めてワールドカップ(フランス大会)に出場し、それ以降4年おきに通ぶるにわかサッカーファンになる。しかし、底が浅いので本物のファンと話すと数分で実力がアイドル未満とばれる。
6.どこのファンでもないのにJリーグの試合をここ5年間で1年に1回なんとなく見ている。ちなみに、本物のファンに囲まれると怖いので、ゴール裏の一般席ではなくいつもメインスタンド付近で見ている。
7.代表の試合が国内で開催される際、「代表戦はなかなかチケットがとれないんだよー。」と周りに言っている割に真剣にチケットをとろうとしたことがない。
上の1~7で思い出に一番強く残っているのはやはり2なのですが、とにかく雪の山の中をたくさん走らされた記憶が強く残っています。
中学生は試合時間が短いので、そんなに体力はいらなかったような気もしますが。
ただ、大人になって振り返ると、顧問の20代の先生方2人は、一人がバスケしか経験がない先生で、もう一人は野球と陸上の経験しかない先生だったので、経験が全くないサッカーをよく僕らに教えてくれたなあと今では感謝しています。
経験が無い分野の仕事を任されても、それをご縁と思ってとりあえず行い、人とぶつかりながらも必死に独学していく真剣さが人の心をうつのだと思います。
さて、今回のワールドカップについてですが、昨晩日本がポーランドに敗れはしましたが、決勝トーナメントに進出を決めた状況です。
後半の終わり際、日本は負けているのに攻めずボールをまわす。
なぜなら、そのまま試合が終われば上位を争って成績が拮抗しているセネガルをイエローカードの枚数で勝り、決勝トーナメント進出が決まるから。
つまり、下手に攻めてイエローカードをもらったり、失点をしてしまうと決勝トーナメントに行けなくなる可能性があるからです。
サッカーを見ていて初めて見る光景でした。
勝っていて時間稼ぎにボールを回すシーンはよく見ますが。
色々な方面から賛否両論あるようですね。
勝つためにルールの範囲内で行っているプレーですから別によいのではという意見が多い気がします。
こういう意見が巻き起こるのは、スポーツに勝ち負け以外の何か美学やすがすがしさを皆が心のどこかで求めているからなのでしょうね。
一般社会に無い心の拠り所(綺麗な水が湧き出るオアシスみたいなもの)が皆欲しいのかもしれません。
監督、選手の皆さんはマスコミや世間に叩かれることに慣れており、そのタフなメンタルを自分は見習いたいなと思います。
勝負の世界で人を説得する方法は、結果を出す(勝ち続ける)ことだけなのでしょうね。
10代から長い期間勝負の世界にさらされたきた選手たちは若くてもそのことをよく知っています。
結果を出し、人を説得するためのチャンスを、自分自身でつぶし自滅しないよう、冷静になって希望をもち、細くても続けていくのが大事なのでしょうね。
今回の大会でもう一つ気になったのは、VAR(ヴィデオ・アシスタント・レフェリー)の導入です。
反則かどうか怪しいプレーを主審が録画画像を見て確認できるシステムです。
確認のため、一時試合を止めないといけませんが。
バレーボールでも野球でもこのようなシステム(ビデオ確認)はありますが、もう時代の流れなのかもしれません。
どのスポーツもいずれ審判は全て機械になる気すらします。
機械に媚を売る未来が来るのかもしれません。
しかし、生身の審判が判定することは、ときには曖昧さも含めて、きっとスポーツの魅力に味付けをしてきたのではないかと感じています。
「人間だもの」みたいな。「それが人生だから」みたいな。
実は、この技術はかなり昔からあり、機械ができることをあえて人がずっと行っていたのではと僕は感じています。
一般社会と同じように人が人を判断し評価するスタイルだからこそ、観戦している人は無意識に自分の今までの人生を投影して観戦するのです。
あのとき理不尽されて悔しかったなあとか、頑張って続けてきたから俺にも運がまわってきたよなど。
将来もテレビの前でくだを巻き、翌日人と会った瞬間に議論を交わしたい一おやじとしては、スポーツの発展のため機械と人間の上手いバランスをとってほしいものです。
本当の感動は他人の頑張りから得るものではなく自分自身の努力や苦労からしか生まれないのかもしれません。
サッカーは、若い頃のようにシンプルに強く生きろと時折自分に助言してくれているような気がします。
手を使わなければよいというルールの単純さ、道具は最低ボール一つだけあればよい、他のスポーツと比べ体格差のハンデを覆せる、1点が大きくなかなか点が入らないことから入ったとき人を非常に興奮させる、だから世界中に広がりオリンピックより遥かに大きい興業規模になった。
サッカーはシンプルの極みのようなスポーツではないでしょうか。